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しがないオタクの戯言

嵐と私。私と嵐。

【注意】ありえん長いです。文体と内容が気持ち悪いです。それでもよろしければ。

 

生まれる前から知っていたような 安らぐ君と不意に出逢った。

 

2011年冬。

 

ハマるには遅すぎた。

その後悔はこの先何年経っても消えることはないだろう。現在20代前半の世代ではあるあるであろう5×10~風景頃の「みんな嵐好き」の時代を嵐ファンとして私は知らない。

 

この年の夏頃、当時大好きだった番組がなくなった私はどこか楽しみを失っていた。かといって今のように毎日絶望で泣くくらい辛かったわけでもなく。ただ熱中するものを失って虚の状態だったと記憶している。

たまたま見ていた謎ディ、紅白、翌年のVS嵐新春SP。正直なにが決め手だったのかは全く覚えていない。なぜ見ようと思ったのかも覚えていない。それが気が付けば、毎週番組を録画し、本屋で雑誌を漁り、情報をチェックするようになっていた。

 

当時中学生だった私は、物事を斜め上から見るような冷めた子どもで。中学生らしい夢や希望もなくて、将来なんのためになるのかも分からない勉強をやらされていることに飽き飽きしていた。

そんなませガキの私は、櫻井翔さんの志の高さを知ってものすごい衝撃をうけることになる。この人はすごい。めちゃくちゃすごい。何がどうすごいのかは周知の事実であるため省略するが、子供ながらにそのすごさは痛いほど伝わってきていた。

ここで「推しになりたい」タイプのオタクである私は、あろうことかこの「めちゃくちゃすごい人」になりたいと思ってしまったのだ。ここから櫻井翔になりたい私の人生がスタートする。

 

同じ部活で嵐の話ができる大野担の友人にも恵まれ、順調に嵐の知識を増やした私はその後一応学区内で一番偏差値の高いといわれていた高校、学科に進学した。

「翔さんに近づくにはこんな田舎の学区内での進学で妥協してはならないと思ったから。」という超ハイパー単純な理由である。今となるとちょっと面白いので笑ってほしいのだが、当時の私は至って真剣だった。(私が受験勉強にかなり苦戦し、親は諦めてもいいと言ってきたのに私がかなりの剣幕で諦めないと突っぱねたものだから、親はかなり驚いた顔をしていたのを今でも覚えている。)

 

 

そんなこんなで行った先。まあ言ってしまえばこの高校が私にとって地獄だった。

なにが地獄だったのか話すと一生終わらないし、この話の趣旨から外れるので割愛するが、世の中のありとあらゆる理不尽を詰め込んだみたいな世界で私は余計に人生に絶望することになる。

しかし悪いことばかりではなかった。この高校で私は一緒に嵐ファンとしての人生を駆け抜けてくれる友人との出会いを果たす。

彼女は二宮担だったが、偶然にもファンになった時期が私とほぼ同時期だったのだ。毎日二人で嵐の話をして、昔の知らない番組や見たことないものを競い合うように発掘して送りあった。それはもう時間を忘れるくらい夢中だった。同時期にハマったからこそより話が進んだし、その結果二人ともより沼に浸かっていくことになる。これが全然ハマった時期が異なっていたら、こうはなっていなかったと私は思っている。

 

とにかく絶望の高校生活の中で「学校に行って嵐の話をする」ことだけが生きる楽しみだった。彼女とはクラスが違ったので、ずっと廊下で喋っていたらよく色んな人に怒られた。

「あいつは嵐の話してる時だけ、楽しそう。」いつしか周囲からそう思われるようになり、私は嵐ファンの人として定着することになる。

普通の人が送る楽しい高校生活、いわゆる青春みたいなものは私には1mmも存在しなかったが、嵐だけは間違いなく私の「青春」であった。

 

だが、いくら嵐の話が楽しいといえど、そんな地獄生活を送っていてもちろん精神状態がいいはずもなく、本気で学校をやめたいと思ったこともあれば、本気で死にたいと思ったこともあった。毎日夜中まで泣きながら勉強するのが当たり前だった。

 

全部投げ出したくなった時は、大野さんの「今、目の前にあることを頑張れないやつが、何を頑張れるんだ」という言葉を思い出した。

もうちょっとだけ頑張ろうと思えた。

 

絶望に打ちひしがれそうになった時は、翔さんが17歳の自分に向けて書いた手紙の一文を思い出した。

「無理しないでね。」

人は言うかもしれません。

死ぬほど無理して下さい。

別に死にゃしないから。

どんなに嫌なことも死ぬ気でやってやろうと思った。死んだら死んだでその時はその時だ、と。

 

2014年年明け。たまたま模試で良い点数をとり、念願のFCに入会。この年のデジが私にとって初めての嵐のライブになった。

だが高校時代毎冬になると体調を崩して、精神状態も崩壊していた私はこの年も例によって最悪の状態で。

苦しすぎてとりあえず1回本当に死のうかと思った日があった。その時、涙でかすむ視界のなか見えたのがチケットの入ったあの青い封筒だった。

「あぁ…嵐に会いたいな」

その感情に突き動かされて、私はこの場でなんとか思いとどまることができた。

 

ライブ初参戦、初嵐を達成したこれと同時期にまた一種のターニングポイントを迎えることになる。

2014年12月14日「NNN衆院選特別番組 ZERO×選挙2014」

札幌ドームでのライブを終えた翔さんがそのまま東京に直行したために、出演時間がかなり夜遅くになった回だ。

仮眠を一度とってから出演時間を待ち続けたが、私の住んでいた関西地方では翔さんの出演シーンが放送されることはほとんどなかった。

関西住みのファンにとってはもはや選挙特番あるあるお約束だと思うのだが、まあローカルの壁に阻まれてまともに放送が見れない。メインの企画やインタビューすら放送してもらえないことだってある。

 

同じくローカルの壁で見れない朝のワイドショーも多く、全てを記録し残しておきたい主義だった私はこの日とうとうプツンと糸が切れてしまった。

「絶対に上京してやる」

この日そう強く誓った私は、関東圏の大学への進学を目指して猛勉強をはじめた。

つまりローカル番組のせいで東京の本放送が見れなくてムカついたから、東京の大学に行くことにしたのだ。あまりに思考が短絡的で阿呆すぎてまじで笑ってほしい。

でもこのまま田舎に住み続けて番組が見れない、ドームが遠い、番協やイベントに参加できないと嘆き続けるより、大学進学という至極全うな手段をもって上京してしまったほうが早いと思ったのは事実で、この判断は間違っていなかったと今でも思う。

 

そして来る2016年春。

私は敬愛してやまない人と同じ学び舎に歩を進めることになる。

 

この頃、普通の友達付き合いの概念をもう失っていた私は上手く友達をつくることが出来なかったがそれでも同じ嵐が好きということで仲良くしてくれる人がいた。構内でグッズを持っていたら嵐好きなの〜?私も!と話しかけてくれる人がいた。

卒業した今でも、連絡を取り合って話せる仲間が出来たことは非常に有り難いことである。

 

それに加えて大学入学頃初めてTwitterで嵐垢をつくる。これが私の人生をまた1つ大きく変える出会いをつくることになる。

 

嵐垢で繋がった友人たちとジャニショに行って、デスマッチのお店に行って、嵐の広告を見に行って、カラオケ行って、入らないのにツアーの時期になったら毎日のようにドームに行って騒いで………

 

 

私が高校の時に出来なかったこと、憧れていたことが全部できた。夢が叶った。

 

それはそれは楽しくて、時間を忘れた。私の大学生活4年間は、オタク活動とその資金を得るバイトでほとんど全てを占められ、ここでも大学生らしい生活を送ることは出来なかったがそれでもよかった。

 

嵐がいなかったら絶対に出会うことのなかった人たち。嵐が結びつけてくれた素敵な縁。

 

それぞれ学校を卒業、就職するうちに会う機会こそ少なくなってしまったが、そこに行けば必ず話を聞いてくれる人がいる。私にとって大切な「居場所」「帰るべき場所」であることに今も変わりない。

 

2020年春。コロナ禍の就職。

嵐のライブやその他私が趣味で通っていたライブ、イベントが全て中止。生きがいを失うなかで、決して諦めることなく常に可能性を模索し続け、新たな挑戦をしていく嵐の姿にまた背中を押された。

「信じることがすべて 明けない夜はない」

 「今から始めてみればいいじゃない?」

「夢だけ持ったっていいでしょ?」

嵐の曲に励まされ、勇気をもらった人がどれくらいいたのだろうか。

 

 

あの時、嵐に出逢わなかったら。

私は強い意志をもって勉学に励むこともなければ、上京することもなく今でも田舎で暮らしていただろう。それはそれはつまらない人生になっていたに違いない。

 

辛い時、苦しい時、もう無理だと思った時。

暗闇の中から私を救い出し、進むべき道をそっと照らしてくれたのはいつも嵐だった。

5人の言葉が、行動が、姿勢が、私を強くさせた。挫けそうな時にもう一度立ち上がるキッカケをくれた。

 

今も人生に特に希望を見い出せないままいる私にとっては、嵐の夢が自分の夢であった。嵐が大業を成し遂げ、記録をつくり、また人の記憶に残るたび、自分のことより遥かに嬉しかったしファンでいられることを誇りに思った。

 

嵐のファンになろうと思った日は2012年1月3日だと記憶しているため、私のファン歴は明日で満9年、10年目に突入する。

周りの人と比べればすごく短いことは分かっている。いくら昔のことを後から知ったとしても、その当時をリアルタイムで感じてきた人には一生及ばない。オタクだからその辺は痛いくらい分かっている。

だが、長々と述べてきた通り、私が嵐と過ごしてきた時間は極めて濃密なもので、私の想いが生半可なものではないことはご理解いただきたい。まあそれもこれも20数年の人生において実生活に生きがいを一度も見出すことの出来なかったオタクの成れの果てに過ぎないのだが。

 

「もっと早くファンになっておけばよかった」

オタクなら誰しも一度は言ったことがあるのではないかと思うくらい耳馴染みあるこの言葉。

私もいつも感じていることだ。

2020年も振り返られる嵐の番組を見る度、その半分以上をリアルタイムで過ごす事が出来なかったことに大きな劣等感と悔しさを感じ続けた。素直に懐かしがって泣くことができなかった。

時間は巻き戻すことができない。だからこそ今は半分以下でも、徐々に3分の2、いつか4分の3って同じ時をゆっくり重ねていきたいと思っていた。

その時計の針が一旦止まってしまったことはもうショック、絶望としか言いようがない。

だが、短くとも一緒に時を重ねた時間は本物で決して消えることはない。その事実は今確実に私を強くさせている。

それに時計は壊れてしまったわけでない。止まった針は、また動き出すかもしれない。

そう、大好きな大切なあの曲のイントロのように。

 

夢の世界へのいざないを知らせるあの素敵な音色を、今はただひたすらに、願いそして待ち続けたい。 

 

2019年11月15日に想いを馳せる

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遡ること1年前。私は北の大地、北海道にいた。

 

ARASHI Anniversary Tour 5×20

2019年札幌公演

 

私にとって一生忘れられない思い出になった大切な大切な公演だ。

1年経った今、思い出深い旅を文字に残しておきたいと思い、ここに書き記す。

 

まずはこの日に至るまでの経緯を含め、話そうと思う。

 

私は関西出身で現在関東在住の身。

京セラドームにも、東京ドームにも自宅から行けたから、これまで遠征というものを経験したことがなかった。

友達と参戦したいな~と調子乗って二人で応募する度、落選の文字を叩きつけられてきた私はとにかく当たることだけを考え、え~い学生の特権だ!といわんばかりに「いつでもどこでもよい」にまでチェックを入れてしまった。そう、入れてしまったのだ(フラグ)

 

2019年3月1日。

皆さんご存じ5×20 and more第1回当落発表日だ。

期待してはいけない…いけないと思いつつ期待に胸を膨らませながら、薄目で見た当落画面。

 

その他当選

 

その他…?当選?てなんだ…??

頭の中?がいっぱい。混乱状態。

 

まあつまるところ、いつでもどこでもよいを選択したため11月札幌公演に当選していたということで。え?一回待とう。嵐のライブ時の札幌行き飛行機と宿戦争は壮絶だと聞いているが…私ヒトリ。ヒトリデホッカイドウ…ナニモワカラナイヨ…(謎のカタコト)

 

一刻を争うことは薄々気づいていたが、どうしていいか分からずぼーっとTwitterを眺めていた。その時、私は見つけてしまった。リア垢で同じく櫻井担の同級生が「どこでもいいで札幌当選だ~」と呟いているのを。私は思わず「え!何日?」とリプした。なんとその友人も私と全く同じ経緯で同日に当選していた。しかもお互い一人参戦。これは運命でしかない。とんとん拍子で入場まで二人で行動することが決まった。

ちなみ飛行機や宿はすべて友人が確保してくれた…持つべきは良い友…ありがたや。

 

迎えた前日11月14日。

12日はあんな衝撃の出来事があったし(詳しくはもう言わないが)、前日にはそれで気が動転したのか家の鍵を失くして、パッキング途中のキャリーも作りかけのうちわも全部そのまま家の外に閉め出された。(自業自得)

 

一抹の不安を抱えながら、札幌へ。

 

新千歳空港に到着、電車に乗り、宿のある駅に辿り着く。

ホームに降り立ったその瞬間、明らかにいつもと違う空気を感じた。

 

さっっっっっっっっっっむ!!!!

 

いや寒すぎんか?空気が冷たいというか痛い…。すみませんなめてました北の大地の寒さを。とりあえず速攻ホテルに避難したが、足元に気を付けてないと間違いなく滑って転ぶのでめちゃめちゃ時間がかかった。

(この辺の寒さの描写は北国に一度も足を踏み入れたことのない初心者の気持ちで見てほしい。異論は受け付ける。)

せっかくこんなところまで来たからと、ジンギスカンを食べに外に出たりもしたが、猛吹雪すぎてもう凍るかと思った。

 

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ただ肉は猛烈に美味かった。

 

その日はVS嵐デビュー20周年記念3時間SPの放送日。二十嵐を楽しく見つつ、来る明日に向けその日は眠りについた。

 


そして来たる11月15日

 

櫻井担が二人集まれば、「旅行は遊びじゃないぜ!」となるのも致し方ないことだ。開演前までの時間を有効的に使おうと、朝っぱら起きて海鮮丼を食べに行ったりしたが何しろこの日も猛烈に寒かった。足先が凍りそうだったので、さすがの私たちもホテルに戻って足湯をした。

 

開場時間を迎えるころには辺りも暗くなってきて、昼間若干和らいでいた寒さもまた増してきた。友人は先に入場したが、私は外でグッズを買い、あろうことか外のトイレ列に並んだせいで余計に凍える羽目になった。寒い。入場しようとして傘を閉じようとしたら、凍ってて閉まらなかった。冬の札幌、恐るべし…。


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街灯に照らされた雪がお分かり頂けるだろうか…?その奥に薄っすら見えるのが札幌ドーム(この至近距離にしてもはや霞んで見える)

 

そんなこんなで初めて入った札幌ドーム。東京ドームや京セラは一階、二階とスタンドが分かれているのに対して、札幌ドームはすり鉢状にスタンドが広がっていて動員数の割にすごく端から端までが近く、また一体感を感じた。これはクセになりそう。

 

そわそわ落ち着きなく、辺りを見回すうちに、とうとう迎えた開演時間。

 

重低音からはじまるあの極めてシンプルなつくりのオープニングは何故あんなにも人を引き付けるのだろう。気が付けば溢れ出た涙が止まらなくて。目の前に現れた夢の世界に釘付けになった。

 

私も友人もand more以前の公演は落選だったため、5×20の参戦はこの日が初めてで。11月3日に満20年を迎え、これから果敢にも新しいことに挑んでいく嵐を祝い、応援することができて本当に幸せだった。

心なしか客席からの声援もいつもより大きい気がして。

嵐からファンへ送られる無償の大きな愛に包まれ、誰もが笑顔になる。この時だけは、ここにいる誰もが同じ夢の中にいる。

 

極寒の札幌はすごく温かく優しい気持ちに包まれた地だった。

 

興奮冷めやらぬまま、友人と語り尽くしながら帰途についた。さすが同じ櫻井担、見ているところも感じたことも似通っていてすごく盛り上がったことをよく覚えている。

 

正直札幌に行くまでは、何もなく東京で当選していればこんな苦労もせず、お金と時間を使うこともなかったと心のどこかで思っていたところがあった。だが、今では札幌で良かった、札幌でないとこの深い思い出はつくれなかったと思う。

「おうちに帰るまでが5×20ですよ」

嵐のライブでは気をつけて帰るんだよ!とセットでよく耳にするおうちに帰るまでが〇〇シリーズ。これは本当におっしゃる通りで。おうちを出てから、おうちに着くまでの様々な出来事も付随し、それひっくるめた上でその人にとってのライブの思い出は成立するのだ。

その点からいうと、冬の極寒の札幌という非日常的体験は同じく非日常的であるライブに付随する記憶としてうってつけだった。家を出てから帰宅までの三日間。そのすべてが夢で、幻だったかのような。だけど、消えることなくいつまでもキラキラ輝いて私の心の中に光を灯し続けている。

 

私はそれから四か月後、年が明けて三月に大学を卒業した。

オタ活ばかりに精を出し、大学生らしい思い出などほとんどなかった私の中で、この体験は大学四年間の集大成、一番の思い出になった。櫻井翔という人物に憧れ続け、短いながらその背中を追ってきた私の人生においても、ある意味ここは目的地の一つだったと言えるだろう。

そんな大切な大切な思い出を私はこの日つくることができた。

 

 

これを書いている現在、北海道ではコロナ感染者が増え、予断を許さない状況が続いている。1年前、私たちを温かく出迎えてくれた札幌の人たちは無事だろうか…?とニュースを見ながら考える。


街中に嵐のツアーバックを持った人が行き交い、民族大移動かのようにドームを目指して進んでいく。

あの一見異様な光景が私は大好きだ。みんなそれぞれどんな想いでここに集ってくるのか、何を思い何を感じるのか?気になってワクワクしてしまう。


また同じツアーバックを持った同志たちと共に意気揚々とドームを目指せる日が来る事を、私は願ってやまない。

 

 

 

とにかくアラフェスの話がしたい

とにかくアラフェスの話がしたい。

 

アラフェスの話がしたい。

 

誰も聞いてなくても、誰も相手にしてくれなくても、1日中アラフェスの話がしたい。

 

ということで独り言をとめどなく脈絡もなく、綴っていこうと思う。開いてしまった方はしばしお付き合いを。

※この記事はアラフェス本体のセトリ並びに演出、個々のパフォーマンスを語るものではありません。悪しからず。

 

アラフェス2020 at 国立競技場

嵐とファンによるお祭り。

記念すべきCDデビュー日である11月3日はまさに嵐一色の日になった。

私も朝から新聞を買い込み、嵐関連のトレンドで賑わうTwitterを1日中眺め、泣いて笑って・・・一生忘れられない11月3日を過ごすことができた。

ちょうど1年前の2019年11月3日。SNS、デジタルシングル、サブスク、北京、国立…情報をこれでもかというくらい解禁し、まさに世界中に嵐を巻き起こすぞと。その熱をリアルタイムで共有していることに興奮と鳥肌が止まらなかったあの日。

あの頃からは全く想像できなかった未来。

 

Part1が始まってすぐに映った引きの画で、分かってはいた、分かってはいたもののそこに誰もいないことにどうしようもない気持ちが込み上げてきた。物わかりの悪い私はその現実をまだ受け入れることができなかったし、受け入れたくもなかった。

 

笑顔のファンたちで埋め尽くされるはずだった客席。自分をはじめ、そこに居合わせたくて仕方のなかった人は星の数ほどいたというのに。

 

皆で行けるはずだったまだ見ぬ夢の世界のことを日々想い、刻々と過ぎていく時に勝手に焦り続けていた。街行く人の装いが秋になり、冬に近づき、朝外に出ると澄んだ空気が冷たくて。

耐えられなかった。冬を迎えることを体が完全に拒否していた。

先週はイルミネーションを見て、心が凍えそうだった。街にクリスマスソングなんて流れた暁には発狂してしまうんじゃないかって。

 

11月3日はすごく楽しみにしていたが、始まれば終わってしまう。この日が終わったら私はどうしたらいいんだろう。意志とは無関係に、不条理にも進んでいく時を憎みながら、寒さを恨みながら、心を殺して嗚咽をこらえて生きていくんだろうか?

 

そんな一抹の不安を抱きながら、迎えた配信。

 

結論からいうとPart1の冒頭で感じた絶望は、すぐに払拭されその後二度と私の前に現れることはなかった。

陳腐でありふれた言葉かもしれないが、

嵐はやはり最高のエンターテイナーだった。

 

彼らは無観客だからこそできることをやり尽くし、そのアドバンテージを最大限に利用していた。

(見ました…?インサマの海とか、Sugar前とa Day RebornのARとか…あれは現実?夢では??)

 

だが、その一方で無観客を悲しく感じさせる瞬間を最小限に抑えていた。

客席一面を隙間なく埋め尽くす7万本超のペンライト。

設置するの大変だっただろうな…スタッフさんにまじでっかい感謝。言ってくれれば私も手伝いに行ったのに(笑)

大野さんは「ファンの子がじっとしているみたい」と喩えていた。そこにファンたちを見ていてくれたこと、本当に嬉しかった。

いつものように私たちに声をかけ、C&Rをし…。たとえ映像の中では返ってくる声がなかったとしても、画面の前の我々がそれに応えればなんの問題もなかったし、嵐も時間と場所を越えて返ってくるはずの声を信じて疑っていなかった。(と思う)

実際に当日生放送で我々の声を沢山拾って、返してくれたことで更にその掛け合いを感じさせてくれた。本当に抜かりない。5人がめちゃめちゃ楽しそうなのがまた更に良かった。最高。

 

 

とにかく私がそこに見たのは「いつも通りの嵐」、「いつも通りの嵐のライブ」で。

配信になったことで何かが変わってしまうのではないか。どこか違和感を感じて、微妙な気持ちになってしまうのではないか。

そんな漠然とした不安はどこかに吹っ飛んで、あっという間に嵐のエンタメの世界、夢の世界に前のめりになりながら引き込まれていった。

 

あと無観客だからこそ出来た、逆に良かったなという新しい発見(?)

広い国立競技場の端から端まで散り散りになる必要がなかった今回。嵐五人が同じカメラの画角に入るくらいひとつにまとまって動くことが多くて、これは普通のライブではないことだなと感じた。

これは実は5×20の時にも同じことを感じていて。Step and Goで広い広いドームの中、ムビステの上で五人で肩を寄せ合う姿。アンコールのHappinessで五人そろって花道を一周するシーン。翔さんの言葉を借りるとするなら、”5×20の5”のほうをどれだけ大切にしているかをそのまま体現しているようで胸が熱くなったのをよく覚えている。

 

そんな新しい良さも発見でき、私はアラフェスをすごく前向きな気持ちで見ることができた。始まる前は涙でびしょびしょでまともに見れないかと思っていたが、気が付けば笑顔になっていた。

 

 

嵐はきっと人を笑顔にする魔法使いだ。

 

無観客ライブを見た後に、「良かったけど、やっぱり現地で見たかったね」「直接声を届けたかったね」と口にするのはごく自然なことだと思う。ライブにおける”現地”に勝る経験って、やはりないに等しいから。

しかしアラフェスを見た後は不思議とそんな台詞を言う気にならなかった。

嵐がこの一年間ずっと。こんな状況下でも、ファンに届けられるものはなにか誠心誠意、一生懸命考え、それを形にしてきてくれたこと。

その一つ一つの蓄積がこの気持ちにあらわれているのだろうなと思った。

 

そんなことより、どんな形であれ再び「国立競技場」という舞台に、しかも「新国立競技場でライブした初のアーティスト」として嵐が立っていることに何より喜び、感動し、そして誇りを感じていた。

今回要所要所から嵐にとって「国立競技場」がどれほど大切な場所なのか改めて感じ取れた。Voyageを含め、あの場所にどれだけ強いこだわりがあるのか痛いほど伝わってきた。

以下、Voyageのネタバレを含みます。

広い国立競技場を使用してライブをするには、それ相応のスタッフ数が必要。無観客が決定した今、国立にこだわらなくてもいいのではないか?といった声に翔さんのわがままともとれる「やりたいなあ」のひとこと。自らの立場と発言の重さを考え、何重にも思考を巡らせてから言葉を世に発しているであろう櫻井翔の口から出た、心情に直結した言葉だったからこそ心臓をぎゅっと握られた気分になった。

コロナ禍になってから、一つ一つの判断が今までよりいっそうコンテンツの未来を左右するようになった。もしなにかあってからでは遅い。敏感さを増した人の悪意の元に、あることないこと書き立てられ、面白可笑しく晒上げられる。

そんな中、嵐という日本最大級のコンテンツがそれでも「国立競技場でライブを行う」という決定を下すまでにどれだけの悩みや苦しみ、迷いがあったのか…Voyageを見てもなお、我々がそのすべてに触れることは決してできないだろう。

医学的に?世間の目から見て?果たしてどうだったのかは、私には分からない。だが、嵐の一ファンである私は、この大きな決断に敬意と感謝の意を示したい。私を含め、日本中の人が明日もまた前を向いて生きようと思える、そんな勇気や希望をこの日もらった。我慢や不安だらけの日々のなか、これがどれだけ大きな意味を成しているか分かるだろうか?

 

今日もテレビで言っちゃってる 悲惨な時代だって言っちゃてる

僕らはいつも探してる でっかい愛とか希望探してる

Everyday! Everybody! まだまだ世界は終わらない

いまから始めてみればいいじゃない

 

同日に大々的に広告が打ち出されたHELLO NEW DREAM PROJECTでも歌われるデビュー曲の歌詞。この歌詞が今年どれだけの人の心に刺さったのだろう?と考えることが何度かあった。

21年経った今でも色あせることのないメッセージ。

みんなを勇気づける歌。パフォーマンス。

 

嵐は今日も人々に夢を与えている。

 

Part2カイト前のVTRで大野さんが語っていた言葉がすごく印象に残っている。

 

未来は流れていく時間の先じゃなく、

前に進もうとする意志の先にあると

信じているから。

 

現在の状況に甘んじることなく、決して驕り高ぶることもなく、常に前を見て進んできたチーム嵐の活動そのものを表している言葉だと感じた。

私たちもまた悲観的になるのではなく、前に進もうとする意志を、強い気持ちを、願いを。言葉にして行動にして示していかなければと感じさせてくれる。

記念すべき11月3日はそんな一日だった。

 

アラフェスが終わってしまったら…?あと二ヶ月を鬱々と生きなければならないのか…?なんて冒頭でつらつらと書いていたが。

アラフェスを終えた今はこう思う。嵐が届けてくれるもの全部全部受け取って、走り抜けなきゃもったいない!鬱になってる暇なんてない!我々が勝手に鬱になっててどうするんだ!

街のクリスマスツリーもイルミネーションもまだ笑顔で見ることはできそうもないけど。I Can't Wait for Christmasを聴きながら迎えるクリスマスも悪くないかもしれない。

ご本人たちも放送の最後辺りで言っていた。

 

まだ二ヶ月ある。

 

あと二ヶ月じゃなくて、まだ二ヶ月。時間もできることもまだ沢山ある。

俯いてちゃいられない。